[目次]
序章 7
第1章 一人のドイツ人の伝記とその反響 19
ベックマンとドイツ的アイデンティティ
一九二〇年代におけるベックマン受容
伝記、美術批評及び専門的文献における評価
ベックマン研究における欠落部分
アメリカ合衆国
第二次世界大戦後
ドイツ的な、あまりにもドイツ的な画家
ベックマンの手になるテキスト類
芸術家としてのベックマンに対する三つの立場
近代芸術の中に彼の位置を定めるための歴史的方法
第2章 美術史の鏡に照らして 33
画家の初期と近代性の中に座を占めようとする試み
過去の時代の巨匠への眼差し
アヴァンギャルドとの衝突
リアリズムと抽象の狭間で
セザンヌとアンリ・ルソーについての理解の仕方
ベックマンが考える近代芸術の二つの伝統をともに引き継ぐこと
問題としてのピカソ
画家、美術批評家、コレクター
近代性のうちに座を占めているという主張
過去の芸術への回顧
第3章 古典的レパートリー 53
巨匠たる者にあるべき芸術作品の諸ジャンル 肖像画、ヌード、風景画、静物画
ヌード及び芸術と自然を巡る論争
自然から芸術への変容
眠れるヴィーナスとヴィーナスの化粧
空間
風景画とアンリ・ルソーの無垢なる事物
形而上派との間の境界線
窓としての画面
自我と世界
ロマン主義的構想
静物と芸術のアレゴリー
目指す目標への道としての連作
芸術とジャズ
パリとの対決
伝記的事実と象徴性
ネーデルラント人たち
ピカソとキュビスム
ベックマンの考える芸術とは
第4章 社会の中の芸術家 75
「国家の中の芸術家」(一九二七年)
理想とすべき芸術家像
ロシアへの眼差し
風刺としての「芸術家の社会的立場」(一九二七年)
一九二〇年前後に抱いた希望
「超越的理念」とショーペンハウアーの遺産
「芸術家の形而上学」とニーチェの遺産
ベックマンにおける「規律を与えられた陶酔」としての芸術
近代社会からの逃避としての芸術
世界の現実性に対する絵画の現実性
ゴットフリート・ベンとの共通性
物質主義への嫌悪と「芸術の形而上学」
様式の問題
芸術批評家としてのカール・アインシュタイン
神話への道程
一九三〇年前後の芸術及び時代の歴史
芸術的世界像に対するアインシュタインの攻撃
ベックマンの《タキシードを着た自画像》(一九二七年)
ベックマンのテキスト「国家の中の芸術家」との相関性
芸術家なる者の資質と亡命
《ホルンを持った自画像》(一九三八年)
二つのヴァージョン
第二の表現主義
社会からの距離
第5章 芸術における神話、あるいは神話としての芸術 107
神話の表現としての芸術が神話になる
ブレイクが話しかけた言葉の中の「秩序立てられている」と「正しく」
芸術的真実の保証人としての「形而上的暗号」
脱神話化に対する再神話化
一九三〇年前後におけるテーマとしての神話
W・F・オットーの神話観
ベックマンの神話に関する知識
世界の神話に対する魂の神話(グノーシス思想)
神智学と二元論
H・ヨナスによるグノーシス思想の「存在の分析」とマーティン・ハイデガー
シュルレアリスムと神話
シュルレアリスムと対蹠的なベックマンの立場と「アルカイックな真実」への回顧
ベックマンの具象芸術の役割
世界像の象徴
ベックマン作品における神話
ピカソの《ミノタウロス》とベックマンの《エウロパの略奪》
三幅対《出発》の世界における神話の占める位置
「芸術神話」
第6章 ベックマンの語り手としての自我 125
近代的自我と超越的自我の共存
二つの声で語るベックマンの自己表現
ベックマンの語り手としての自我が、初期作品において持つ意味―
ヴェストハイム、マイヤー=グレーフェ、グラーザー、オットー・フィッシャー、カール・アインシュタインの証言
近代小説に見られる共通性
画家と小説家
美術批評と「文学的」絵画を巡る問題
目に見えるものの描写と反省
客観的見方と主観的見方が混じるベックマンの芸術
ラックナーの解釈、劇場のメタファー
マリアンネ・ケスティングの『発見と破壊』
ベックマンと抽象芸術
彼の絵画における二つの鏡
役割としての自我
サーカスの団長
自画像
《始まり》とブレイク
二重肖像画
性のテーマ
役割としてのベックマンの生涯
ベックマンの複数のテキストで言及された超越的自我
近代人の夢としての芸術
ベックマンのオデュッセウス
三幅対《俳優たち》
夢の絵
《手回しオルガン奏者》と二元論
《王》(一九三七年)と時代に抗うベンのユートピア
晩年作における芸術的反省と自己反省
《墜落する男》(一九五〇年)と、超越と世界という二重の鏡
訳注 164
原注 190
参考文献 207
資料編 ベックマンの手になる三つのテキスト 211
「国家の中の芸術家」(一九二七)
「私の絵画について」(一九三八)
「ある女性画家に宛てた三通の手紙」(一九四八)
訳者あとがき(解説) 243
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